2012/03/24

佐藤 正持「皇朝画史」

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佐藤 正持「皇朝画史」


(各)28.0×40.8cm/紙本淡彩

作品解説

佐藤正持は日本神話や歴史上の出来事などを描き、市井で衆人に開陳して見せ日本精神の高揚を図ったとの逸話から紙芝居の元祖とも言われています。江戸から丹後、姫路、讃岐を遊歴したのち倉敷に来て、医師・石坂堅壮宅に寄寓し、大坂屋源介(林孚一)の庇護の下で終生の大著『皇朝画史』を制作中に病没しました。『皇朝画史』とは、日本武尊や源義経の物語など、古代から江戸時代までの名場面を編集した絵画集で、正持の研究者である結城素明によれば「忠孝の道を新しき社会秩序の根幹としなければならないとする彼の信念を、彼の抱懐する皇道思想として、爰に不朽に伝え得た」ものです。正持は、本作を描くにあたって昔の絵巻物などを熱心に勉強しています。

in 6:水彩・素描など

2012/03/14

中村 昭夫「《西國の秘佛》より薬師如来坐像面相 余慶寺(瀬戸内市)」

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中村 昭夫「《西國の秘佛》より「薬師如来坐像面相」余慶寺(瀬戸内市)」

1984(昭和59)年
84.0×59.0cm/写真

作品解説

中村昭夫は郷土愛に溢れた代表作となる写真集を数々出版しています。『西國の秘佛』89点も「山陽、山陰の6県下の山里にひっそりと息づく、秘められた仏像の美を見据えて」みたいとの思いから生まれたものです。瀬戸内市邑久町にある余慶寺は、報恩大師が備前四十八ヵ寺のひとつとして開山したといわれています。本尊の薬師如来坐像は、像高182cm、一木から彫成された岡山県屈指の平安時代前期の仏像です。中村が撮影した本像は、森厳で重量感溢れるこの像の圧倒的な迫力を余すところなく伝えています。

in 7:写真

2012/03/14

塩見 允枝子「SPATIAL POEM No.1」

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塩見 允枝子「SPATIAL POEM No.1」

1965(昭和40)年
30.0×46.0×5.5cm/紙・ピン

作品解説

塩見允枝子は1964年から翌年にかけてニューヨークに渡り、前衛美術運動・フルクサスに参加しました。フルクサスでは様々なジャンル、国籍の作家が実験的な試みを繰り広げ、特に日常的な行為を取り込んだ「イヴェント」と呼ばれるパフォーマンスを重視しました。「同封したカードに言葉を書いて、それをどこかに置いて下さい。そして何の言葉をどこに置いたか、どうぞ私に知らせて下さい。世界地図の上にそれらを編さんしますから」と書いて、塩見がフルクサスに関係する100人以上の世界中の知人に手紙を送ったのは、彼女が日本へ帰国する数ヶ月前のことです。78人から寄せられた返信の言葉を編さんすることにより、目で見る空間の詩ともいうべき作品〈ことばのイヴェント〉が生まれました。塩見はカードに書かれた言葉とカードが置かれた場所を表裏に記載した旗を作成し、世界地図の上に立て、参加者全員に送りました。一見他愛のない回答が編さんされると、この地上で多様な人々が日常生活を営んでいることが不思議な感動と共に実感されます。言葉だけが描かれた白い地図と旗は、作品を観る者(詩を読む者)の想像力を最大限にかき立てます。

in 5:彫刻・立体など

2012/03/14

岡崎 和郎「HISASHI」

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岡崎 和郎「HISASHI」

1995-97(平成7-9)年
66.5×16.5×10.0cm/ブロンズ

作品解説

1977年頃、岡崎はHISASHIシリーズに着手します。HISASHIは、庇に由来しています。家の庇は風雨などを避けるために人工的に作られたものですが、自然界でも、木陰や岩の下などが庇の役目を果たしながら生物を守っています。庇は、庇という物の名前ではなく、屋根の延長部分であったり物陰の一部であったりなど常に何かの部分として存在しています。つまり庇は、庇の役目を果たすことでそう呼ばれる機能を指しています。岡崎は、庇を戸外から室内に移すことによって、生命の休息という庇が本来持つ機能や意味を、見る人に問うています。本館のエントランスホールには2点「HISASHI」が常設展示されています。

in 5:彫刻・立体など

2012/03/14

岡崎 和郎「黄色い人形」

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岡崎 和郎「黄色い人形」

1967(昭和42)年
8.0×14.5×10.5cm/ポリエステル・樹脂

作品解説

岡崎和郎は「西洋では見落とされてきた物の見方を、東洋の見地から補足するようなオブジェを制作する」という理念のもと、御物補遺という独特の概念を確立しました。御物補遺とは、皇室の所蔵品をさす御物と、漏らし落とした事がらを補足するという意味の補遺という言葉を合わせた岡崎の造語で、ときに物補遺といわれることもあります。これは、岡崎がオブジェの制作を始めた1963年以来、現在に至るまで基本的な造型理念としているものであり、こうした理念をもとに人形や手袋、電球など身近にある物の形を反転させたり、わずかに変形させたりすることで、物と空間の関係を意識させ、物に対する新しい見方を提示し、物の持つさまざまな側面を作品にしました。合わせ鋳型で作られた本作は、それぞれ凸と凹の左右のハート型を重ねるとぴったり合うようになっています。ある一方が他方を補っているのではなく、どちらも主であり従ともなりうるという可能性を暗示したこの作品には、一貫してオブジェの制作に携わってきた岡崎の物に対する思想が凝縮されています。

in 5:彫刻・立体など

2012/03/14

平木 正持「残雪 甲州吉田」

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平木 正持「残雪 甲州吉田」

1907(明治40)年頃
25.1×42.3cm/水彩・紙

作品解説

水彩画が日本で本格的に描かれるようになるのは明治20年代に入ってからです。水彩画は油彩画と比べ、誰もが手軽に楽しむことができる身近な絵画として急速に普及しました。第1回文展に入選した本作は、早春の富士山のたたずまいを水彩で表現した平木政次の代表作です。

in 6:水彩・素描など

2012/03/14

大野 昭和斎「桑厨子棚」

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大野 昭和斎「桑厨子棚」

1982(昭和57)年
79.0×36.5×55.0cm/桑材

作品解説

木工芸の主な制作技法には、板材を組み合わせて調度品などを作る指物、轆轤を用いて椀などを作る挽物、檜や杉などの薄板を曲げて作る曲物、鑿などを使って木を刳って鉢などを作る刳物がありますが、大野昭和斎が得意としたのは指物でした。また、地となる木材に別の木材などを嵌め込み文様を作って装飾効果を高める線象嵌の技法を駆使した作品も多くあります。本作は、卓抜した指物技術がうかがえる昭和斎の代表作で、第29回日本伝統工芸展に出品されました。正倉院宝物の柿厨子に着想を得、使用金具は上代飾金具製作修理の第一人者・金江宗観に依頼して制作されました。

in 3:工芸

2012/03/13

稲葉 春生「芍薬」

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稲葉 春生「芍薬」


168.5×233.5cm/絹本着色

作品解説

 春生は1925(大正14)年、池田遙邨の紹介で竹内栖鳳に弟子入りします。この作品はその頃描かれたもので、この時の雅号は「春山」でした。その当時しばしば手本とされていた、中国の宋元院体花鳥画を良く研究していたことがうかがえる作品です。芍薬の花びら一枚一枚のすみずみまで神経をいきわたらせて描いており、楚々とした美しさが表現されています。 背景は微妙な濃淡が付けられ、暗い部分は花もその中に静かに溶け込んで沈潜し、光の当たっている部分では花も明るく可憐で、上品に輝いています。

in 1:日本画

2012/03/09

柚木 久太「朝暾」

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柚木 久太「朝暾」

1954(昭和29)年
80.3×100.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

第10回日展に出品された本作は柚木久太の代表作のひとつで、錦江湾に浮かぶ桜島を描いた作品です。海と島の境目を画面のほぼ中央にとり、手前には鹿児島市街地が見えます。桜島の右後ろから昇る太陽のため逆光になった島の姿を、大胆に青を基調にした台形で描いており、そこにはときに噴煙を上げて人々の暮らしに災いをもたらす不気味さはありません。明るく穏やかな色彩でまとめられた画面からは、しらじらと夜が明け東の空に桜島の裾野から昇る朝日を見たときの感動が素直に表現されています。

in 2:洋画

2012/03/09

三橋 健「いかりつくり」

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三橋 健「いかりつくり」

1938(昭和13)年
130.0×193.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

独立美術協会第8回展に出品された本作は、錨を打つ人体の表現など力強い躍動感に満ちた初期の代表作です。具象的な表現にもかかわらず、夢の中の世界を描いたような作品でシュルレアリスムの影響を感じさせます。戦後、三橋健は坂田一男と親交を結び抽象的な作品も描きましたが、国画会会員となった1955年以降は、鬼と女、ナワ蛇と巫女などの民俗学的な連作に意欲的に取り組みました。

in 2:洋画

2012/03/09

満谷 国四郎「長崎の人」

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満谷 国四郎「長崎の人」

1916(大正5)年
91.3×116.8cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、長崎市に住んでいた郷土史家・永見徳太郎の肖像画で、第11回文展に出品されました。モデルになっている永見は長崎市の旧家の生まれで、南蛮美術を中心とした収集家として、また芥川龍之介や竹久夢二ら多くの文化人と交友があったことでも知られています。満谷国四郎が永見に宛てた手紙からは、満谷が酒席でもてなされたり永見夫妻と花札に打ち興じるなど、両者の親しさがうかがえます。この作品では、グラスを手にくつろいだ雰囲気でソファにもたれる永見のまわりに、タピストリーと思われる古地図やギヤマンといった異国情緒あふれるモチーフが描かれ、いかにも南蛮美術を収集しているコレクターの肖像にふさわしい小道具が揃えられています。ところで、手前のテーブルにさりげなく置かれたワイングラスは、一体誰のためのものでしょうか。永見はすでに片手にグラスを持っています。満谷は親しみを込めて自分自身の存在をグラスに託して描いたと思われます。二人の交友の深さを物語る作品といえるでしょう。

in 2:洋画

2012/03/09

原 撫松「肖像 (伝 奥宗之進)」


原 撫松「肖像 (伝 奥宗之進)」

1906(明治39)年
55.6×45.4cm/油彩・キャンバス

作品解説

 京都府画学校で田村宗立に学んだ原は、帰郷後肖像画を描きながら絵画の研鑽を積みました。上京後は伊藤博文や西園寺公望の肖像を描き、肖像画家として知られるようになります。1904(明治37)年、原はロンドンに渡り、レンブラントをはじめオールド・マスターの作品の模写をして、ヨーロッパ伝統の油彩画技法を習得しました。ロンドン滞在時代に描かれたこの作品のモデルは、原と共にロンドンへ渡った大阪の商家の息子奥宗之進です。奥は原にとって弟のような存在で、ロンドン滞在はしばしばモデルをつとめました。絵具を丁寧に塗り重ね、重厚な画面を作り上げながら微妙な光の強弱を描き出したこの作品からは、原の高度な描写力がうかがえます。

in 2:洋画

2012/03/08

中村 一郎「エジンバラ・冬」

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中村 一郎「エジンバラ・冬」

1975(昭和50)年
162.1×162.1cm

作品解説

中村一郎は1967年から翌年にかけて渡欧し14カ国を歴訪、1973年から翌年にかけても欧米を訪れています。第34回創元会展に出品された本作は、この旅行の成果のひとつです。重厚なマチエールでスコットランド東岸の古都エジンバラの凍てつく冬の夜の情景が的確に表現されています。正方形の画面を冬の夜空とぽつぽつとあかりがともるエジンバラの町を上下2分して、さらに下4分の1の部分に倉庫の屋根を描く構図も成功しています。

in 2:洋画

2012/03/08

中津瀬 忠彦「風景A」

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中津瀬 忠彦「風景A」

1954-55(昭和29-30)年
50.0×97.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、後楽園の木々と旭川の水面に映ったその影をモチーフにしています。フォルムを単純化していき、いくつかの塊として表現していくこのシリーズは、終生のテーマとして取り組んだ中津瀬忠彦のライフワークでした。中津瀬は一時期、「働く人々」のシリーズなどピカソを思わせるキュビスムに傾倒しましたが、この作品もキュビスムから学んだ画面構成の意識を展開した作品です。抑制の効いた渋い色調で描かれたこの作品は、均衡のとれたフォルムと堅実な構成力に支えられていながら、詩情性豊かな作品となっています。

in 2:洋画

2012/02/26

吉富 朝次郎「岐阜長の堀」

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吉富 朝次郎「岐阜長の堀」

1904(明治37)年
31.0×43.8cm/水彩・紙

作品解説

本作は、吉富朝次郎が京都府画学校助教授として勤務したのち、岐阜県師範学校や大垣中学で教鞭を執っていた頃に描かれた水彩画で、本館はこの作品のほか遺族から寄贈された18点の資料を含む21点の作品を収蔵しています。

in 6:水彩・素描など

2012/02/26

山口 松太「油枩堆錦漆箱《粧》」

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山口 松太「油枩堆錦漆箱《粧》」

2001(平成13)年
21.5×11.0×13.0cm/麻・漆

作品解説

山口松太は難波仁斎に師事し、備中漆を用いて沖縄の堆錦技法を改良発展させました。本作は第48回日本伝統工芸展の出品作です。

in 3:工芸

2012/02/26

林 鶴山「欅拭漆八角喰籠《鷹ヶ峰》」

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林 鶴山「欅拭漆八角喰籠《鷹ヶ峰》」

1988(昭和63)年
24.0×24.0×13.0cm/欅材

作品解説

木工芸の制作技法の中でも林鶴山が得意としたのは、欅や桑、花櫚などの材を刳って喰籠、香盆、盛器などをつくる刳物です。本作は第35回日本伝統工芸展の出品作で、上質の欅を用い、仕上げに20回以上も漆を塗って拭きとることによって光沢を出す拭漆の技法を駆使した鶴山の真骨頂を示す作品のひとつです。

in 3:工芸

2012/02/26

難波 仁斎「鳩ノ図手箱」

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難波 仁斎「鳩ノ図手箱」

1937(昭和12)年
24.4×34.5×14.8cm/漆

作品解説

本作は、自ら創出した描蒟醤の技法を駆使した仁斎の代表作のひとつで、透明な漆を根気よく丹念に塗り重ねたり、研いだりすることにより、立体的で格調の高い作品となっています。

in 3:工芸

2012/02/26

正阿弥 勝義「百代麟鳳鼎形香炉」

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正阿弥 勝義「百代麟鳳鼎形香炉」


13.7×11.0×10.5cm/金・銀・銅 他

作品解説

正阿弥勝義の作品の特徴は、形の写実性だけではなく、何種類かの金属を使って、より現実に近い雰囲気を出す色絵金工の技法にあります。本作も金、銀、銅などさまざまな素材を組み合わせてつくられており、その下絵と思われる手控えが岡山県立博物館に残されています。中国古代の青銅器の鼎をアレンジしてつくられたこの作品の最大の見どころは、雲形透かし彫りをした火家の上に乗った丸彫りされた精巧な麒麟の鈕で、口の中の歯や舌、鱗やたてがみの表現など隅々まで神経が行き届いています。画帯文は、向かい合う鳳凰をあしらっていますが、金の目を嵌入しているところなど細かい部分も正阿弥の真骨頂といえます。正阿弥は、終生、武士の時代の技術で作品を作り続けていくことに誇りを抱いていました。正阿弥のこうした作品は、フランスのアール・ヌーボーに影響を与えた可能性も指摘されています。

in 3:工芸

2012/02/26

金重 陶陽「閑古鳥香炉」

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金重 陶陽「閑古鳥香炉」

昭和(戦前)
20.0×10.0×26.0cm/陶土

作品解説

金重陶陽の父・楳陽は細工物の職人として知られていました。陶陽は、幼少より父について備前焼を学び、20歳代で伊部を代表する細工師の一人として獅子や鳥などの細工物を手がけました。本作は陶陽が古備前を復興する以前、細工物の名手として活躍していた頃の作品で、箱書きの署名から30歳代頃の昭和前期の作品と考えられます。彩色備前は低温で焼成したのち彩色するため壊れやすく、現在確認できる陶陽の彩色備前はほんの数点に過ぎません。焼成後にすっきりとした線を出すために、数千本に及ぶ鶏の羽や足などの線を1本1本丹念にヘラで引いて描いています。

in 3:工芸

2012/02/26

伊勢﨑 淳「備前角壺」

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伊勢﨑 淳「備前角壺」

2007(平成19)年
48.2×30.5×10.5cm/陶土

作品解説

伊勢﨑淳は、備前焼細工物の名工といわれた伊勢﨑陽山の次男として生まれました。伝統的な技術をふまえた作品から斬新で造形性豊かなオブジェまで幅広い作陶表現を展開し、広範な視野に基づく真摯な制作への取り組みは、後進にも大きな影響を与えています。本作は、型物ながら白く抜けた土肌にわずかにかかった緋襷が印象的でモダンな作品となっています。

in 3:工芸

2012/02/26

髙原 洋一「GEOMETRIC NARCISSUS 90・D」

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髙原 洋一「GEOMETRIC NARCISSUS 90・D」

1990(平成2)年
123.0×170.0cm/シルクスクリーン・紙

作品解説

髙原洋一は写真をベースにしたシルクスクリーン版画を手がけて現代日本美術展や日本国際美術展で数々の賞を受賞し、早くから全国的な注目を集めました。髙原の作品にうつし取られた風景は、ほんの少し作家が手を加えることによって、不思議な変容をとげます。本作は、水面に人為的につくられた物体の日陰と水に映った幻影によって、つかの間の三次元空間を体感させる装置のようにも見えます。タイトルにあるナルキッソスとは、水に映る自分の姿に恋をして死に、水仙の花に化したというギリシア神話に登場する美青年ナルシスの物語からの言葉ですが、髙原の作品と共通しているのは、ある物体が水に映るという現象だけのようにも思えます。髙原の作品は、あくまでも見る(見える)とはどういうことなのかを知的な遊び心を交えながら絵画化することにあったと思われます。

in 4:版画・ポスターなど

2012/02/26

横井 金谷「美人図」

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横井 金谷「美人図」

1797(寛政9)年
118.0×36.5cm/絹本着色

作品解説

横井金谷は1788年、住職を務めていた金谷山極楽寺が消失したのを機に全国放浪の旅に出ました。本作も旅の途上、兵庫県北部の城崎温泉で描かれています。1823年頃には倉敷に逗留、倉敷市阿知にある観龍寺の風牀上人や倉敷の豪商・水澤邦綱らと交友し、この地に多くの作品を残しています。画人としての金谷は、もっぱら形式にとらわれない自由奔放でダイナミックな山水画を描きました。加えて、庶民的で身近な感情から発した飄逸な作品も多くあります。その画風は敬慕していた与謝蕪村の影響が見られる作品や、この作品のように南画に写生画のおもむきを加えた作品の他、洋風画を試みた風景作品など多彩であり、金谷の興味が多方面に及んでいたことをうかがわせます。

in 1:日本画

2012/02/26

柚木 玉邨「秋景山水図」

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柚木 玉邨「秋景山水図」

1915(大正4)年
35.4×41.5cm/絹本着色

作品解説

柚木玉邨は、明治から昭和初期にかけて活躍した南画家です。第八六国立銀行の取締役など要職を歴任し、岡山県農会の幹事兼技師として働くなど、産業の分野で活躍しました。来訪中の清国の胡鉄梅に師事し、流麗で品格の高い水墨画を描きました。1927年には、日本書道作振会展で文人画部第1席推薦東日賞を受賞しています。日本の南画家は、中国南宗画の基本的な理論と描法をまとめた『芥子園画伝』などを参考にして独自の水墨画をつくっていきましたが、本作は玉邨がこうした中国の画譜に習熟していたことをうかがわせる佳作です。

in 1:日本画

2012/02/21

御船 綱手「世界周遊実写 欧山米水帖」

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御船 綱手「世界周遊実写 欧山米水帖」

1913(大正2)年
(各)25.0×19.0cm/絹本着色

作品解説

東京美術学校で橋本雅邦の指導を受けた御船綱手は、卒業後は大阪で画業に励みました。1910年、日英博覧会に際して大阪朝日新聞の西村天囚と欧米を旅行、そのときの見聞を基に欧米各地の風景をこの作品に見られるとおり、画帖にまとめたのをはじめ、この頃欧米のエキゾチックな景観を精力的に描いています。本作は3帖72図にわたって、寄港地のハワイにはじまり、北米、英国、アイルランド、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ロシアの様々な名勝地を、山岳地と水辺の風景に焦点をあてて描き出しています。

in 1:日本画

2012/02/21

津田 白印「竹林山水図」

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津田 白印「竹林山水図」

1915(大正4)年
141.5×41.0cm/絹本墨画

作品解説

南画とは、中国で文人画あるいは南宗画と呼ばれていた絵画に触発され、江戸時代後期に日本で名づけられたものです。中国において文人画とは職業画家の絵に対する言葉として士大夫の教養に基づいた絵画を指し、南宗画とは北宗画に対する言葉としてもともと地域的な様式の違いを示す概念として用いられました。しかし日本ではこうした区別は曖昧で、南画という括りで語られるのが一般的です。津田白印は、明治から昭和初期にかけて活躍した南画家で、社会事業家としても活動しました。幅広い学識と無欲恬淡な人柄に拠る画風は、本作にも見られるとおり清澄で品格が高く、多くの人々に親しまれました。

in 1:日本画

2012/02/21

黒田 綾山「三国志図」

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黒田 綾山「三国志図」


150.5×349.2cm/金地着色

作品解説

黒田綾山の作品は、山水画、人物画、花鳥画など多彩ですが、特に中国の故事や説話に取材したものが多く、それらは常に深い教養に裏打ちされています。本作は『三国志』から想を得た作品ですが、綾山は関羽などこの物語に登場する人物をよく描いており得意としていました。この作品は綾山には珍しい金地に描かれた屏風の大作です。

in 1:日本画

2012/02/21

釧 雲泉「山水図」

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釧 雲泉「山水図」


42.6×179.3cm/銀地墨画淡彩

作品解説

釧雲泉は長崎で画技を学んだ後1791年頃に来岡し、1800年頃まで備前・備中を中心に活動しています。本作は銀地に描かれた扁額で、1795年頃に備中地方で制作されたと推定されます。写生に基づいた実際の風景ではなく、現実世界を超えた理想郷を描いた作品で、俗臭のない南画となっています。

in 1:日本画

2012/02/21

衣笠 豪谷「備中倉子城図」

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衣笠 豪谷「備中倉子城図」

1892(明治25)年
11.9×269.5cm/紙本着色

作品解説

1915年に刊行された『豪谷画葊遺墨集』にも掲載されている本作は、全長269.5cmの巻物で、倉敷の中心部から、ほぼ360度見渡した風景を描いた作品です。西は連島山から、時計と反対に南まわりで足髙神社がある葦髙山、福田越、笹沖村ときて、「金毘羅山ト云」と書かれた種松山、続いて福南山が描かれています。羽島山から鶴形山の観龍寺あたりを描いた近くには、「衣笠豪谷所生」と自分の出生地も明記されています。東から北へ目を転じると、二子金平山、福山、最後に酒津兜山で終わっています。当時の倉敷の様子を伝える貴重な資料といえるでしょう。

in 1:日本画

2012/02/21

小野 雲鵬「美人図」

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小野 雲鵬「美人図」

1825(文政8)年頃
119.6×36.2cm/絹本着色

作品解説

本作は、小野雲鵬が29歳頃の作品で、雲鵬が若い頃用いていた湘雲の落款から、修行していた京都時代に描かれた作品であることがわかります。

in 1:日本画

2012/02/21

岡本 豊彦「連島真景図」

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岡本 豊彦「連島真景図」

1794(寛政6)年
29.0×236.4cm/絹本墨画淡彩

作品解説

本作は、岡本豊彦が21歳頃の作品です。円山四条派の代表的な作家の一人に数えられる豊彦ですが、この作品には綾山らについて勉強した南画の雰囲気が色濃く残っています。玉島側の河口付近から連島を望んだ実景と推測され、左端に見える高梁川は前方に広がる瀬戸内海に注がれています。また、画面中央付近には箆取神社と思われる建物も描かれています。

in 1:日本画

2012/02/21

大橋 正堯「林孚一像」

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大橋 正堯「林孚一像」

1893(明治26)年
85.0×35.3cm/絹本着色

作品解説

本作は洋画家・大橋正堯が、日本画を描く際の雅号・豪山の名前で描いた林孚一の肖像です。孚一は、倉敷の豪商で勤王家として知られており、藤本鉄石、佐藤正持といった勤王画家や南画家の田能村直入など多くの文化人と交友しました。孚一は1892年に亡くなっているため、この作品は故人を偲んで遺族が大橋に依頼したものと思われ、遺影となる写真をもとに描かれたと考えられます。

in 1:日本画

2012/02/21

山本 正「薪能」

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山本 正「薪能」

1961(昭和36)年
97.5×194.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、当時、山本正が取り組んでいた薪能をテーマにした作品のひとつです。山本は1962年の個展に際し、次のように述べています。「主題は、私が薪能から受けた、感動です。それを、私なりに、抽象し、現代的に形象してみました。私は、何よりも、作品が新鮮であるように心がけ、直接的に、また、即物的に創作しました 」この言葉からもわかるとおり、当時の山本は、モチーフとなった対象を大切にしながら、色あざやかで自在な心象風景を展開しています。

in 2:洋画

2012/02/21

皆見 鵬三「高梁川の秋麗」

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皆見 鵬三「高梁川の秋麗」


38.0×45.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

具象的な雰囲気を残す本作は、山河に囲まれた吉備の山里に隠棲した皆見鵬三の心象風景とも思える小品です。この作品に見られるように、晩年の皆見は、現実の風景などをモチーフとしながら、流れるような線と明るい色彩による作品を数多く残しています。ここには、明らかに牧野虎雄の影響がうかがえますが、理想とする胸中の山水を描いた文人画家とも共通する日本的な油彩画の確立をめざした作家の姿が垣間見えます。

in 2:洋画

2012/02/21

満谷 国四郎「戦の話」

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満谷 国四郎「戦の話」

1906(明治39)年
107.4×151.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

1906年の第5回太平洋画会展、翌年の東京府勧業博覧会に出品された本作は、日露戦争という非日常的な出来事を庶民の生活の中で率直にとらえており、当時の社会情勢の一端を反映しています。美術評論家の森口多里は、1943年に発行された『美術五十年史』の中で「帰還の一兵士が軍服のまま畳の上に坐って銃剣を構えた身振りで一家族に戦争話をしている場面で、兵士の後ろの硝子障子から差し込む初夏らしい日光が座敷の中の一群の人物の明暗を際立たせることによって、洋画としての画的効果を高めた」と評しています。確かに、この作品の大きな見どころのひとつは光の効果的な使い方にあります。そのうえで、たとえば画面中央で立て膝をついて話を聞いている男の足元や帰還兵があぐらをかいている部分など意識して曖昧に描いています。

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2012/02/21

松原 三五郎「能道具図」

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松原 三五郎「能道具図」


36.5×85.0cm/油彩・板

作品解説

本作には、能に用いられる道具、鼓・扇・見台・3冊の謡本が描かれています。扇には観世流の祖・観阿弥をあらわす「観阿」の文字が見えます。ページが開かれた謡本の曲目は『高砂』であり、クライマックスとなる場面が作品を見る者に読み取れるように描かれています。世阿弥がつくった謡曲『高砂』は、高砂尾上の松と住吉の松が夫婦であるという伝説を素材とし、天下泰平を祝福するめでたい曲目で、婚礼など祝賀の席で多く謡われます。この作品を描くにあたって、松原三五郎は祝いの意味を込めた絵を依頼されたのかもしれません。

in 2:洋画

2012/02/21

堀 和平「母子像」

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堀 和平「母子像」


45.0×57.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

堀和平は実業家として成功する一方、神戸での仕事の合間に外国人から油絵の技法を学んだといわれ、岡山洋画壇の先駆けとなる人物です。本作は堀の代表作のひとつで、西洋絵画の陰影法を取り入れて、人物の顔や着物のひだの立体感を表現しようと苦心しながら描いています。この作品は、当時の石版画などにも同じポーズをした女性像が見られ、1917年に発行された『美術』第1巻第5号所収の亀井至一が制作し同郷の平木政次が所蔵していた「お以久」という石版画もそのひとつです。さらに、本館が所蔵する堀の作品には、明治天皇像やナポレオン像のように写真や印刷物を参考にしたと思われるものもあります。堀は明治時代前期、洋画の画題そのものが未だ手探りだったとき、風景画や静物画などに加えて幅広い画題に意欲的に挑戦し、熱心に制作していたと考えられます。

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2012/02/21

平木 政次「伊豆下田港」

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平木 政次「伊豆下田港」


54.0×101.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

黎明期の洋画は、幕末明治期に盛んだった本草学などの自然科学と結びつき、ありのままを忠実に描くことによってその存在価値が認められました。平木政次は、1879年に、大森貝塚を発見したアメリカの動物学者モースから、出土した土器を描いた石版画に実物を見ながら着色する仕事を依頼されています。その翌年からは文部省の教育博物館に画工として任命され、動植物の標本画の作成に携わるなど、実用的で合理的な写生を身につけました。近代に入り、写生に基づく風景画が広く描かれるようになりますが、本作も見たままの風景を忠実に再現しようとしたもので、平木の実直な制作態度をうかがうことができます。技術的には、ペインティングナイフを使いこなしている部分も見られ、明治時代の洋画が急速に発達していく様子がわかります。

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2012/02/21

坂田 一男「裸婦」

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坂田 一男「裸婦」

1924(大正13)年
92.1×62.9cm/油彩・キャンバス

作品解説

「裸婦習作」と同年に描かれたこの作品では、ピカソやブラックの分析的キュビスムの手法が試みられています。その翌年に描かれた「裸婦」では、オザンファンやジャンヌレが主張したピュリスムと呼ばれる色面によって分割された幾何学的な抽象表現の影響を受けています。わずかの間にめまぐるしく変化する画風からは、新しい絵画を熱心に研究し、試行錯誤しながら西洋の新しい理論を吸収しようとしていた意欲的な作家の姿がうかがえます。

in 2:洋画

2012/02/21

齊藤 國雄「農地改革―百姓―」

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齊藤 國雄「農地改革―百姓―」

1956(昭和31)年
113.0×142.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

「もはや戦後ではない」と謳われた昭和30年代、日本は、高度経済成長を遂げていく一方で、日米安全保障条約の締結など戦後日本の行方を左右する出来事が次々に起こります。齊藤國雄は、当時のこうした戦後日本の社会的なひずみなどをテーマにした作品を描いた作家です。1956年、齊藤は前衛美術会の桂川寛や尾藤豊らを東京から招聘し岡山市内で展覧会を開催するなど、自身が組織した美術研究団体・青年造形集団の中心メンバーとして積極的な活動を行いました。同年に描かれた本作は、1957年年の第5回ニッポン展に出品されましたが、格差社会などの問題に取り組んだルポルタージュ絵画として、時代を反映した表現となっています。

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2012/02/21

小林 喜一郎「平井村の山」

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小林 喜一郎「平井村の山」

1931(昭和6)年
72.8×91.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

小林喜一郎は酒杜氏だった父親の出張先である高知県に生まれ、少年期を現在の倉敷市玉島で過ごしました。1916年に21歳で上京、中川一政に師事し三岸好太郎らとともに画業に励んだ。1928年、結婚を機に帰岡し、後進の育成に力を注ぎました。戦後は倉敷市水島に移住し、ふるさとの風景や身近な家族などをあたたかい色調で描きました。本作は、岡山市内の身近な風景を描いた作品で、第18回二科展に出品し、安井曽太郎から「非常に明るくなっていいようです。唯だ距離が出ればなほ一層よかったと思われます」(『美術新論』第6巻第10号)と評されました。

in 2:洋画

2012/02/21

児島 虎次郎「婦人」

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児島 虎次郎「婦人」


96.5×61.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、1909年から1912年にかけての児島虎次郎のベルギー留学時代の作品です。児島は、この作品で点描風の明るい色彩や光線の取り方など印象派の手法を身につけることに力を注いでいますが、仔細に見るとスカートの中央部分の処理など苦心の跡もうかがえます。児島は47歳の若さで急逝し、本作は1936年に大阪中之島の朝日会館で開催された遺作展に出品されました。

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2012/02/21

鹿子木 孟郎「放牧」

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鹿子木 孟郎「放牧」

1919(大正8)年
65.3×93.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、鹿子木孟郎の還暦を記念して、1934年に刊行された『鹿子木孟郎画集』に掲載された1点です。1918年、鹿子木は3回目のヨーロッパ留学から帰国、この作品はブルターニュで取材した牛を描いた一連の作品のひとつで、帰国の翌年に完成しました。鹿子木はこの時のフランス留学時代について「余の最も専心学修せしは絵画のコンポジションなりき」と述べています。当時パリのアカデミーでは、解剖学に基づいた人物表現などを通して、総合的な美としてすぐれたコンポジションを獲得することが職業画家として生計をたてていくための当り前の手順でした。鹿子木は、誰にも負けないデッサン力と構想力を身につけて、自信に溢れて帰国しましたが、帰国後の鹿子木を待っていたのは、黒田清輝をはじめとする白馬会系の洋画家たちの隆盛で、鹿子木のコンポジションを重視した堅苦しい考え方は、思想的な裏付けのない日本の風土には馴染まず、日本洋画壇で根付くことはありませんでした。

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2012/02/17

岡本 唐貴「海と女」

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岡本 唐貴「海と女」

1926(大正15)年
83.5×141.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

岡本唐貴は大正期に前衛美術運動、昭和初期にはプロレタリア美術運動の中心人物の一人として活躍しました。キュビスムや未来派などの影響を受けた大正期の岡本の絵画は、時代の先端を担っていた反面、おおむね抽象的で一般にはなじみにくいものでした。1925年、岡本は矢部友衛らとともに美術団体・造型を結成、「芸術はすでに否定された。今やそれに代わらんとするものは新しい『造型』である」という言葉で始まる宣言文からは、今までにない新しい表現をめざした彼らの意気込みが感じられます。第2回造型展に出品された本作は、水着姿で横たわる目鼻立ちのくっきりした女性を描いた作品です。異様に大きな目と量感が強調され逞しさすら感じさせる描き方は、造型のメンバーに共通して見られる特徴です。赤外線を当てると、目の大きさや位置など何度も描き直した下書きの線が見られ、変更を加えながら作品を仕上げていった様子がわかります。

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2012/02/15

岡野 耕三「ラ・マンサナ(りんご)」

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岡野 耕三「ラ・マンサナ(りんご)」

1971(昭和46)年
162.0×130.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、背景を丁寧に白く塗り、リンゴを思わせる形態も必要以上に絵具を盛り上げていないため、見た目にはシンプルな印象を与えますが、多くの色彩を幾重にも塗り重ねて描いた作品です。対象となる形態と背景は、発色に気を使って慎重に塗り分けられており、岡野耕三が生涯を通して絵画の透明感にこだわった画家だったことがわかります。

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2011/06/29

赤松 麟作「鳩」

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赤松 麟作「鳩」

1928(昭和3)年
65.0×141.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

赤松麟作は幼少期津山から大阪市に移り、文展、帝展で活躍する一方、大阪洋画壇で指導的な役割を果たしました。1939年に刊行された『麟作画集』に採録されている本作は、大阪市天王寺にある四天王寺の縁日の風景を描いた作品です。門前に集う人々を簡略な筆さばきで的確に表現しており、日常的な庶民の風俗を暖かい共感をもって描いています。

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2011/05/01

青木 正春「呪詛」

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青木 正春「呪詛」

1958(昭和33)年
111.8×161.8cm/油彩・キャンバス

作品解説

日本アンデパンダン展に出品した本作は青木正春の代表作のひとつです。昭和30年代は、情報通信網の発達により、新しい美術の動向が瞬時に全世界に伝わるようになりました。従来の常識では美術の範疇に入れがたい作品が次々に現れ、絵画・彫刻といった表現形式そのものが問い直される時代となっていきました。あらゆる定形を否定した抽象絵画、いわゆるアンフォルメル(非定形)絵画の登場も、この時代の出来事です。抽象絵画といってもこの作品は、ドリッピングを多用するような当時はやりの作品と違い、赤を主体とする絵具の層を塗り重ねることによって、うごめくような形態が形成されており、青木の内から発するような衝動を絵画化したものと言えるでしょう。

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2011/04/21

片岡 銀蔵「ロシア嬢」

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片岡 銀蔵「ロシア嬢」

1928(昭和3)年
91.0×60.6cm/油彩・キャンバス

作品解説

片岡銀蔵は、同世代の多くの画家たちと同じように渡仏し、フォービスムやエコール・ド・パリの画家たちなどの絵画に大きな刺激を受けながらも満谷譲りの画風に磨きをかけました。本作は、エキゾチックな瞳の異国の少女を安定した構図と色彩でとらえており、片岡の非凡な技量を示しています。片岡が描いたこの作品のモデルが、同じ衣装を着て、同じ椅子に腰かけ同じポーズをとっている写真が残っていますが、片岡は実際のモデルによる制作に加え、こうした写真も手がかりにして作品を描いたと考えられます。

in 2:洋画

2011/04/21

河原 修平「早春の田園町」

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河原 修平「早春の田園町」

1938(昭和13)年
130.3×193.9cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、空の寒色と大地の暖色を鮮やかな色彩で対比させ、画面全体を大胆な筆遣いでまとめています。下駄履きで煙草をふかしながら右端に立つ人物は河原修平自身である。ちなみに、河原は当時、豊島区長崎町に住んでいましが、この界隈はいわゆる池袋モンパルナスと呼ばれ芸術家が多く住んでいたことで知られており、一時期、片岡銀蔵や中山巍、三橋健らもいたことがあります。

in 2:洋画

2011/04/21

小林 和作「海(紀州太地)」

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小林 和作「海(紀州太地)」

1960(昭和35)年
81.0×100.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

周防灘に面した山口市秋穂地区に生まれ、後半生を尾道市で過ごした小林和作は、風景画、中でも海岸風景を好んでモチーフに取り上げました。構図の美しさこそ風景画の基本と考え、日本全国の海や山の名所はほとんど訪れて、熱心にスケッチしたといいます。これらをもとに、ペインティングナイフを多用した素早い筆致で、堅固な画面構成と豊かな色彩を持つ作品が生み出されたのです。この作品は、ごつごつとした岩場とうち寄せる太平洋の荒波が力強いタッチで描かれていますが、そのなかで海の深い青色と波の白さが画面を引き締めています。(倉敷市立美術館ニュース「ホワイエ」第12号(1999年9月発行)より転載)

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2011/04/21

斎藤 真一「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)」

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斎藤 真一「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)」

1971(昭和46)年
130.0×97.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

瞽女とは、三味線を手に門付けをしながら村々を巡る盲目の女旅芸人のことです。1964年新潟県へ出向き、高田瞽女最後の親方・杉本キクエを訪れた斎藤真一は、翌年より10年以上にわたり、瞽女が旅先の村々で決まって泊まる、いわゆる瞽女宿と呼ばれる農家を取材し、100人以上の瞽女の生涯やエピソードを記録しました。斎藤が描く瞽女は哀感に満ち、社会的弱者ゆえのはかなさを漂わせていますが、同時に凛とした存在感を持っています。瞽女の着物や残照の赤が印象的な本作は、第14回安井賞佳作賞を受賞した代表作です。17歳の花盛りに肺病で死んだみさお瞽女を偲び描いたといわれるこの作品の夜空には、みさお瞽女の魂が星になって輝いています。

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2011/04/21

坂田 一男「裸婦習作」

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坂田 一男「裸婦習作」

1924(大正13)年
92.2×65.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

坂田一男はわが国抽象絵画の草分け的な存在として知られています。1921年に渡仏、はじめオトン・フリエスに師事しますが、フェルナン・レジェの教室に移りキュビスムの研究に取り組みました。本作は、フリエスに学んだフォービスムの影響下にありながら、しだいにレジェが教える抽象へと移行する時代の貴重な作品のひとつです。限定された色彩を用いて描かれたどっしりとした人物表現からは、造形的な骨格を獲得するために真正面からモデルに立ち向かっていった坂田の真摯な制作態度が偲ばれ、背景の空間処理にはキュビスムへの過渡的な状況の中で模索を繰り返している様子が垣間見えます。

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2011/04/21

坂田 一男「コンポジション」

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坂田 一男「コンポジション」

1926(大正15)年
55.0×46.1cm/油彩・キャンバス

作品解説

坂田は深い情緒性や豊かな装飾性を大切にする日本の風土の中で、葛藤を繰り返しながら理知的な創作活動を貫きました。彼はレジェに現実を再現するのではない新しい美術の表現を学びました。それは「見えるとおりに描くのではなく、知っているとおりに描く」というピカソの言葉にも示されている通り、視覚を超えた分析的で構成的な絵画表現の追求でした。幾何学的な形態を組み合わせたこの作品は、キュビスムの影響から純粋な幾何学的抽象への移行をうかがわせるもので、画面上に見られる現実世界を喚起させる壺などのイメージは、こののち次第に排除されていきます。

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2011/04/21

佐藤 一章「後向」

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佐藤 一章「後向」

1929(昭和4)年
91.0×116.0cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、1930年に開催された1930年協会第5回展に出品され、1930年協会賞を受賞した作品である。日本の風土に根ざした油絵の創出をめざした佐藤一章は、この時期、写生に徹した堅固なフォルムの追求を試みています。この作品は、茶褐色を主体とした画面やパレットナイフを使って量感を強調する手法などに前田寛治や佐伯祐三からの感化が、さらには前田が私淑したクールベへの憧憬がうかがえます。佐藤は、背中を向けた裸婦をテーマにした作品を何点も制作しますが、1930年協会の先輩たちの画風や技術を自らのものとするため習練を重ねていたと思われます。

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2011/04/21

高橋 秀「出現」

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高橋 秀「出現」

1993(平成5)年
270.0×400.0cm/アクリル・キャンバス

作品解説

高橋秀は第5回安井賞を31歳の若さで受賞したのち、1963年にイタリアに移住、その後40年以上にわたりローマを拠点として活躍し、エロスをテーマにして重量感あふれるモニュメンタルな作風を展開しました。本作はシェイプト・キャンバスとビニールレザーを組み合わせ、洗練された形態と明快な色彩に日本的な美意識を融合した大作です。高橋は1993年、日本人として初めてローマ国立近代美術館で個展を開催しましたが、この作品はそのとき会場の正面を飾った記念すべき作品です。母性や太陽をイメージさせるスケールの大きなこの作品は、ローマ在住時代の集大成であり代表作のひとつです。

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2011/04/21

寺松 国太郎「サロメ」

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寺松 国太郎「サロメ」

1918(大正7)年
57.0×119.5cm/油彩・キャンバス

作品解説

本作は、新約聖書の記述を元にした19世紀末のオスカー・ワイルドによる戯曲「サロメ」の一場面が描かれています。戯曲では、イスラエルの王女サロメが、養父ヘロデ王の誕生日の祝宴で、舞いの報酬として望みのものを与えるという王の約束に対し、自らの求愛を拒絶した預言者ヨハネの首を所望します。西洋では、サロメの主題は絵画のモチーフとして古くから取り上げられてきましたが、モローやビアズリー等によって数々の名作が生み出される19世紀末になると、聖書の宗教的な物語の意味合いは薄れ、罪と死の影が宿る宿命の女(ファム・ファタール)として描かれるようになります。寺松国太郎が描くサロメも、退廃的で官能的な女性像となっています。裸婦を得意とした寺松は、サロメの右足とヨハネの首をのせた銀の盆を画面端で断ち切り主題をクローズアップさせることにより、より魅惑的な女性像を演出しています。

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