倉敷市庁舎(現 倉敷市立美術館)建設構想
1958(昭和33)年、旧倉敷市庁舎(現 倉敷市立美術館)は、水島臨海工業地帯を含んで発展しようとする倉敷市の都市構想の一環として計画され、街の中心、倉敷西小学校が移転した跡地に建てることになりました。白壁となまこ壁が続く家並みと倉敷川沿いの柳並木、大原美術館という一般に定着した倉敷のイメージに加え、倉敷のニュー・シンボルとしての建物が望まれていました。設計を依頼された丹下健三は次のコメントを残しています。「倉敷市の伝統と近代的発展にふさわしい、しかも市民のよりどころになるにふさわしい建物をと思って設計した」
建築家・丹下健三(1913~2005)
倉敷市立美術館の設計を手がけた丹下健三は、1913(大正2)年、大阪府堺市生まれ。1946(昭和21)年、東京大学大学院を修了、1961(昭和36)年より丹下健三・都市・建築設計研究所を主宰、1963(昭和38)年には東京大学工学部都市工学科教授に就任する。
戦後、広島平和会館(55年竣工)の設計コンペで1等当選。その後、旧東京都庁舎(57年)、香川県庁舎(58年)が竣工、戦後の庁舎建築の土台を築いた。「東京計画・1960年」では、東京湾上に築地から木更津にのびる都市軸を設ける構想を発表し話題を呼んだ。東京オリンピックでは代々木公園内の国立屋内総合競技場(64年)を設計。ほかにも、国内外の建築物を数多く手がけ、1980(昭和55)年、文化勲章を受章。1991(平成3)年に新宿に新しく建てられた東京都庁舎を手がけるなど、建築界の第一人者として活躍した。
2005(平成17)年に死去。
市庁舎完成
この建物の主構造は、梁を縦横に組み合わせ、その接点部分に柱を配する現場打ちのコンクリートによるラーメン構造です。副構造として、工場生産によりあらかじめ作られた部材を積木のように組み立てていくプレキャスト・コンクリート構法を用いています。なかでも注目すべきは、外観でわかるように、横に架け渡された大きな梁が約20mのスパンを持っているという点です。それを支える柱は太く、壁は厚く。それらが打放しのコンクリートによってむき出しでつくられているため、大きな迫力を与えています。また、南北いずれからでも入ることができるエントランスホールに、高さ10mを越える吹抜空間がつくられ、今でもこの建物の見どころのひとつとなっています。
内部に関しては、市長室の机や椅子、違い棚などのデザインまで丹下自身が手がけました。とくに、教会の内部を思わせる議場(現講堂)のデザインは、丹下が、独立柱のない広いカウンタースペースとともに、この建物の内部空間においてもっとも力を入れた部分のひとつです。ただ当初、この建物の北側には市民広場が設けられ、さらには公会堂が向かい合う形で建設される予定でしたが、それは実現しませんでした。現在、この計画の模型はニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されています。
市庁舎移転
1967(昭和42)年、旧倉敷、児島、玉島の3市合併により倉敷市の人口は、17万人から30万人へとふくれあがりました。この建物の約1km南に新市庁舎が移転することになったのは1980(昭和55)年。行政需要の拡大や業務の多様化を考えれば、市庁舎拡大は止むを得ませんでした。結果として本館の市庁舎としての生命は、丹下の庁舎建築の中で最も短命となりました。
美術館としての再生
郷土出身の日本画家・池田遙邨による倉敷市への作品寄贈がきっかけとなり、1983(昭和58)年、この建物は美術館として再生されました。天井も高く、ほとんど障がいなく拡がる床スペースは、美術館への転用に向いていました。改築の設計を担当した浦辺鎮太郎は1909(明治42)年生まれで倉敷市出身の建築家。1963(昭和38)年には代表作のひとつ倉敷国際ホテルが竣工、1972(昭和47)年の倉敷市民会館では毎日芸術賞を受賞しました。浦辺は、可能な限り丹下建築の特長を残しながら美術館としての機能をもたせることに努めました。こうして旧市庁舎は「現代の校倉造り」と呼ばれた外観をほとんど損なうことなく、美術館として再出発したのです。