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少年時代
遙邨は、1895(明治28)年11月1日に岡山で生まれました。幼いころから絵を描くのが好きだった遙邨は、1910(明治43)年、15歳のとき大阪に出て松原三五郎の天彩画塾で洋画の手ほどきを受け、1914(大正3)年、弱冠19歳で第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」を出品、初入選をはたしました。
少年時代の習作
「災禍の跡」1924年
その後、同郷の小野竹喬との出会いなどにより、次第に日本画の世界に魅力を感じるようになり、1919(大正8)年には京都に出て、竹内栖鳳の画塾・竹杖会で本格的な日本画の修行に入ります。そして、この年の第1回帝展で「南郷の八月」が入選して日本画壇にデビューします。
大正時代後期の遙邨は、ムンクやゴヤなどの作品や、ドストエフスキーやゴーリキーの文学に惹かれ、その影響のなかで、人間の哀しみや人生のはかなさに深く感応しつつ、新しい情趣に満ちた日本画の創造を試みました。1923(大正12)年に起きた関東大震災を描いた作品「災禍の跡」は、この時代の代表作です。しかし、この作品は翌年の第5回帝展に出品したものの、落選となってしまいました。
「昭和東海道五十三次」(原 秋晴) 1931年
昭和に入り、遙邨の画風はさらに変わります。1928(昭和3)年、第9回帝展で「雪の大阪」が特選となり、1930(昭和5)年には第11回帝展で「烏城」が再び特選となります。これらの作品の中には、当時の風俗とそこに生きる人間をテーマにしたものも多く、大和絵の新解釈にたった清新な作風によって、遙邨は再び画壇に認められました。また、この時期、江戸時代の浮世絵師・歌川広重に傾倒し、自らも3度にわたり東海道を徒歩で写生旅行しています。その集大成が、1931(昭和6)年に完成した「昭和東海道五十三次」です。