資料2 嘉永三年戌六月大水記録

資料2 嘉永三年戌六月大水記録

資料2 「嘉永三年戌六月大水記録」(倉敷市所蔵難波家文書22-1)

資料2 嘉永三年戌六月大水記録1
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翻刻

(前略)扨又安江村切レ所江者,毎日々々

県令 藤方彦市郎様御出張ニ而,御自分御宰判二而水尾留
之御用迄御取懸り,御料安江村之分上之切レ所三拾間余,
下之切レ所八拾間余之処,弐拾間余御料御分懸り,六拾間
余備前領四十瀬村之方也,かくて日々懸り村々并ニ窪屋
郡村々ゟ夫役出之候得共,行届事ニも無之候故,外郡々江も
加勢人足被仰付,十一日ニ者都宇郡よりも八百人,浅口郡より
八百人,其外備前領村々不残凡人数三千余人も出之,為替川
掘立,川中江者荒堰四百間計杭柵ニ畳莚をしぶき
土俵築添,日々大造之人夫ニ而十五日ニ者凡成就いたし
候ニ付,十六日水尾留之手筈ニ而川上湛井用水堰所も
弐百人之人夫ニ而堰留ニ相成,既ニ御料所御構之分者,
水尾共堰留ニ相成候処,備前領御構之堰場全惣一体之
水尾留ニ至り押切,今日之水尾留是也ニ而,又翌十七日
取懸り堰留候処又押流し,翌十八日尚又取懸り土俵
夥敷投入,大方堰留ニ相成候処,又押切更ニ留り不申,幅ハ
纔ニ四五間ニ至り候得共,底ハ限りなく深く相成候故,いつ留る
へき共見へす,御普請方も手をもミ術を失ひたる計り也,
然れ共捨置くべき事にもあらねば又段々と工夫を凝し,
十九日ニ者御料分よりも川上酒津水分れ江御出役有之,
御主法有之,備前領ニ而者堰場種々主法方被取懸候也,
かくて岡田御役場并玉島表松平紀伊守様御役場江御懸合
ニ相成,又串川・酒津川別れを御堰立,此所ハ宝暦年中
御裁許有之,双方ゟ小石壱ツも手入不相成旨御裁許之場所ニ
候得共,此度之儀ハよの常ならさる畢竟国変之事ニ候故,
其段御懸合有之,尤水尾留済次第早々御取払,若又急雨
等有之,西堤難保程之義も有之候ハヽ早々御取払之御規定
ニ而,御堰立之由相聞候,依之安江・四十瀬之切レ所ハ一滴之水も
不流砂原ニ相成,同夕夜終御堰留直ニ仮堤迄成就
せんとする所に,又廿日晩ゟ大雨終夜止ミなく,廿一日朝迄
大雨ニ而,再度堰切レ又々倉敷辺迄周章いたし候得とも,
此度者水嵩四尺程ニ而,無程引落申候,夫々日々御普請
ニ而六月晦日頃ニ者仮堤悉出来立候処,七月朔日又々大雨ニて
川一升出水,既ニ仮堤危く早朝ゟ 御代官様御出張当日
昼夜通しニ砂持,夫ゟ段々本堤ニ御取懸り,七月中ニ者
御料・備前領とも悉御普請出来ニ相成候,人夫数知れ不申,
尤御料所之方ハ御私領方ともゟ加勢人足等夫々取調
候様御沙汰ニ付,一々取調帳面ニいたし差上候(後略)

読み下し

(前略)さてまた安江村切れ所へは,毎日々々県令(けんれい)藤方彦市郎(ふじかたひこいちろう)様御出張にて,御自分御宰判(さいばん)にて水尾(みお)留めの御用まで御取りかかり,御料安江村の分上の切れ所三十間余り,下の切れ所八十間余りのところ,二十間余御料御分かかり,六十間余り備前領四十瀬(しじゅうせ)村の方なり。かくて日々かかり村々ならびに窪屋郡村々より夫役これを出し候えども,行き届く事にもこれなき候ゆえ,外郡々へも加勢人足仰せ付けられ,十一日には都宇郡よりも八百人,浅口郡より八百人,そのほか備前領村々残らずおよそ人数三千余人もこれを出し,為替(かわせ)川掘り立て,川中へは荒堰四百間ばかり杭柵に畳莚をしぶき土俵築き添え,日々大造の人夫にて十五日にはおよそ成就いたし候につき,十六日水尾留の手筈にて川上湛井用水堰所も二百人の人夫にて堰留めに相成り。既に御料所御構の分は,水尾とも堰留めに相成り候ところ,備前領御構の堰場全惣一体の水尾留に至り押し切れ,今日の水尾留めこれなりにて,又翌十七日取りかかり堰留め候ところまた押流し,翌十八日なおまた取かかり土俵おびただしく投げ入れ,おおかた堰留めに相成り候ところ,また押し切れ更に留まり申さず。幅はわずかに四五間に至り候えども,底は限りなく深く相成り候ゆえ,いつ留まるべきとも見えず,御普請方も手をもみ,術を失ひたるばかりなり。然れども捨て置くべき事にもあらねばまた段々と工夫をこらし,十九日には御料分よりも川上酒津水分れへ御出役これあり,御主法これあり,備前領にては堰場種々主法方取りかかられ候なり。かくて岡田御役場ならびに玉島表松平紀伊守様御役場へ御掛け合いに相成り,又串川・酒津川別れを御堰立て,この所は宝暦年中御裁許これあり,双方より小石一つも手入相成らざる旨御裁許の場所に候えども,この度の儀は世の常ならざる畢竟(ひっきょう)国変の事に候ゆえ,その段御掛け合いこれあり。もっとも水尾留め済みしだい早々御取り払い,もしまた急雨等これあり,西堤保ちがたきほどの義もこれあり候わば早々御取り払いの御規定にて,御堰立ての由相聞こえ候。これにより安江・四十瀬の切れ所は一滴の水も流れず砂原に相成り,同夕夜終(よもすがら)御堰留め直に仮堤まで成就せんとするところに,また二十日晩より大雨終夜やみなく,二十一日朝まで大雨にて,再度堰切れまたまた倉敷辺まで周章(しゅうしょう)いたし候えども,この度は水嵩四尺ほどにて,ほどなく引き落とし申し候。それぞれ日々御普請にて六月晦日ころには仮堤ことごとく出来立て候ところ,七月朔日またまた大雨にて川一升出水,すでに仮堤危く早朝より御代官様御出張,当日昼夜通しに砂持,それより段々本堤に御取り掛かり,七月中には御料・備前領ともことごとく御普請出来に相成り候。人夫数知れ申さず,もっとも御料所の方は御私領方どもより加勢人足等それぞれ取り調べ候様御沙汰につき,一々取り調べ帳面にいたし差し上げ候。(後略)

意訳

(前略)さてまた安江村の(堤防の)切れ所へは,毎日々々県令(代官)の藤方彦市郎様が出張され,御自分が取り仕切って水の流れる筋を止める御用までお取りかかり,御料(幕府領)安江村の分は上の切れ所30間(約55メートル)余り,下の切れ所80間(約145メートル)余りのところ,20間(約36メートル)余りは御料(幕府領)分で,60間(約109メートル)余りは備前領(岡山藩領)四十瀬村の方である。こうして日々受け持ちの村々ならびに窪屋郡村々から人夫役を出すが,行き届かないので,外の郡々へも加勢人足を仰せ付けられた。11日には都宇郡からも800人,浅口郡から800人,そのほか備前領村々残らずおよそ人数3000余人も出し,水を流す代替の川を掘り立て,川中へは荒堰400間(約730メートル)ほど杭柵に畳莚をひっかけ土俵を築き添え,日々多くの人夫で15日にはおよそ成就した。16日に水の流れる筋を止める手筈で,川上の湛井用水堰所も200人の人夫で堰止めになり,既に御料所の御構の分は,水の流れる筋とも堰止めになったが,備前領御構の堰場は全体の水の流れる筋止めになって押し切れ,今日はこれで終わった。また翌17日取りかかり堰止めたところまた押流し,翌18日なおまた取かかり土俵をおびただしく投げ入れた。おおかた堰止めになったところ,また押し切れますます止まらなかった。幅はわずかに4,5間(約7~9メートル)だが,底は限りなく深くなったので,いつ止まるか分からない。御普請方も手を揉み,術を失ったばかりである。しかし捨て置くべき事でもないのでまた段々と工夫をこらし,19日には御料分からも川上の酒津水分れへ御出役があった。やり方の決めごとがあり,備前領では堰場について種々の決めごとどおりに取りかかった。こうして岡田(岡田藩)御役場ならびに玉島表松平紀伊守様(丹波亀山藩)御役場へお掛け合いになり,(上流の字かりまたにある)又串川(西高梁川)・酒津川(東高梁川)の分岐点を堰立てた。この所は宝暦年中御裁許があり,双方から小石一つも手入れすることはできない旨の御裁許の場所ではあるが,この度のことは特別な究極の国変の事なので,そのことを交渉した。もっとも水の流れる筋を止めしだい早々御取り払い,もしまた急雨等があり,西川(又串川)の堤が保ちがたいほどのこともあれば早々御取り払いの規定で,御堰立てのことと聞いた。これにより安江・四十瀬の切れ所は一滴の水も流れず砂原に成り,同夕に終夜御堰止め直に仮堤まで成就しようとするところに,また20日晩より大雨終夜やまず,21日朝まで大雨で,再度堰切れまたまた倉敷辺まであわてふためいたが,この度は水嵩4尺(約120センチメートル)ほどで,ほどなく引き落とした。それぞれ日々御普請を行い6月晦日(末日)ころには仮堤がことごとくできたが,7月朔日(1日)またまた大雨で川が一段と増水し,すでに仮堤が危く早朝から御代官様が出張され,当日昼夜通しに土砂を運び,それより段々本堤に取り掛かり,7月中には御料・備前領ともことごとく御普請ができた。人夫は数知れない。もっとも御料所の方は御私領方からの加勢人足等をそれぞれ取り調べるようとの御指示があり,一々取り調べ帳面にまとめ差し上げた。(後略)