明治17年の高潮

明治17年の高潮

明治17年の高潮


明治17年(1884)8月25日(旧暦7月5日)の昼過ぎから夕方にかけ,九州方面から接近してきた台風の影響で,水島灘沿岸地域に雨交じりの東南の風が起こりました。夜に入ると風は猛烈さを加え,日付の変わる午前0時前後に台風の目が東高梁川河口付近(倉敷市水島地区)を通過,風向きが南西に変化して水島灘海上から児島半島西岸に向かって暴風が吹きつけました。当時,台風による気圧低下の影響で水島灘の潮位は高く膨張しており,暴風にあおられた海面は激浪となって福田新田5カ村(南畝・北畝・中畝・東塚・松江村。倉敷市北畝・中畝・南畝・東塚・松江付近)を囲む防潮堤を破壊し,高潮が5カ村を呑み込みます。深夜の出来事で備えもなく,多くの住民が家ごと波にさらわれ,福田新田五カ村だけで536人もの人命が犠牲になりました(福田大海嘯。犠牲者数は諸説あり)。高潮は同時に連島村・亀島新田村(倉敷市連島町連島・連島町矢柄・連島町亀島新田・亀島などを含む一帯),乙島村・柏島村・勇崎村・黒崎村(倉敷市玉島乙島・玉島柏島・玉島勇崎・玉島黒崎)などにも押し寄せて住民を死傷させ,家屋・塩田・綿花栽培地を押し流し,人々の生活や産業に大きな被害を及ぼしました。最大の被害が生じた福田新田では,被災地救援のため隣接地の福田古新田村(倉敷市福田町古新田)に児島郡役所の仮出張所が設けられ,周辺の村々から人夫が集められて被災家屋・道具類の片付けと行方不明者・遺体の捜索が行われています。死亡が確認された546人のうち身元不明の256人分の遺体は被災地を見下ろす広江(倉敷市広江)の丘上に埋葬され,後世に永く高潮被害の惨状を伝えるため,「千人塚」と呼ばれる供養施設が設けられました。
【参考文献:高橋彪編『明治十七年暴風津浪乃惨劇』千人塚百周年行事実行委員会,1986年。中塚一郎『海嘯懲毖要録 全』私家版,1888年】
資料1 「文化九年 申ノ正月吉日 草木日雨風万覚帳 小川 西原忠平」 (倉敷市所蔵西原家文書1) 本史料は江戸時代の文化9年以降明治17年に至る長期間,備前国児島郡小川村(倉敷市児島小川)の住民が毎年の気象状況や自然災害について記したもので,明治17年の項目に福田新田一帯の高潮被害について概要が記されています。東風が夜中になって南風の「大々風」に変化し,呼松村の前面に位置する「大島新田」こと福田新田の板敷水門,生姫水門など3,4ヶ所が決壊,南畝・北畝・中畝・東塚・松江村の8~9割の家が倒れ,戸籍簿上の計算で635人,巡査の調査結果でいうと670余人が死亡する大惨事になったと記されています。高潮の引き戻しによって沖合に流され行方不明になった住民も多く,正確な死亡者数の把握が難しかったようで,調査方法や調査者によって人数にばらつきがみられます。5日後には被災地の5里四方に住む人々が死亡者調査の助役をするため出動したらしいことがわかります。
資料2 〔「勇崎村之内汐入被害地絵図」〕 (倉敷市所蔵各課から移管文書109-1-2-12) 明治17年高潮は,高梁川河口部西岸の勇崎村(倉敷市玉島勇崎)にも大きな被害を及ぼしました。8月25日深夜12時,暴風にあおられた潮水が勇崎村字押山の水門付近で防潮堤を乗り越える勢いを示しました。村民は堤防防御に努めましたが叶わず,防潮堤は村内の羽口港の東西両岸を含む4カ所で決壊,集落に押し寄せた高潮によって40戸の家屋が流失し破壊戸数97戸・浸入破損戸数187戸,21人の住民が死亡し,押山浜の塩田が一面水浸しになりました。羽口港に停泊中の船舶も怒涛によって路上に打ち揚げられたり,堤防石垣に激突したりして24艘が流失・破損しています。この資料は勇崎村の被災状況を描いた絵図で,堤防の破損・浸水のようすが図示されています。
【参考文献:中塚一郎『海嘯懲毖要録 全』私家版,1888年】
資料3 「溺死人漂着御届」 (倉敷市所蔵木村家文書330「明治十七年一月ヨリ 諸御用書上留 宇野津村」)

 

福田新田5カ村に住まう人々の多くは深夜の高潮襲来に逃げ遅れ,海水に呑み込まれて沖合へ流されていきました。翌日の午後2時ごろ,児島郡宇野津村(倉敷市児島宇野津)の浜手海岸に溺死者2人の遺体が漂着しているのが発見されました。年齢11~13歳くらいの男の子が高潮に引き込まれて溺死し、隣村に流れ着いたのです。この資料は宇野津村衛生委員代理の木村柾太郎がその溺死体の特徴(性別・着衣の特徴など)を味野分署に報告し,至急の検視を願ったものです。
資料4 「風災ニ付歎願」 (倉敷市所蔵大江三宅家文書) 連島村・亀島新田村の地主惣代14人が連名で,両村における高潮被害状況を岡山県知事高崎五六に申告し,救助を願い出た書面の控です。福田新田5カ村と東高梁川を挟んで隣り合う連島村・亀島新田村では,堤防破壊は生じなかったものの海岸の水門が破れ,激浪が堤防上を乗り越えて耕地一円に潮水が流入し,家屋の流失・倒壊17戸,4人が村内で溺死(この他9人が他所にて溺死)する被害を受けました。両村は綿作を物産の第一とする地域で村民の6~7割が綿で生計を立てていましたが,綿花を栽培する耕地が潮水流入で甚大な被害を受け少しも収穫の目途がなくなってしまったため,荒地の租税免除・公の貯蓄金給付とは別途に実地検査の上で救助の施策をとってほしいと歎願しています。