戦後80周年「次世代にひろげ、つなげる平和の輪」

ページ番号1017772  更新日 2025年5月25日

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 人々の心に深い傷痕を残した第二次世界大戦の終戦から、令和7年で80年が経過します。時代の変遷と世代の交代により、戦災の記憶は次第に薄れつつあります。

 現在の平和な社会に生きている私たちにとって、平和であることはあたかも当然で、そのありがたさを忘れがちになります。しかし、世界各地ではいまだに紛争が絶えず、多くの犠牲者や難民が生まれています。

 戦争の悲劇を再び繰り返さないためにも、戦争の記憶を風化させないことと、次の世代に語り継いでいくことが大切です。過去から学び、未来に生かしていくことが、現在を生きる私たちの務めといえます。

 市では、戦後80年という節目の年に、平和への誓いを新たに、これまでの事業を拡大・充実して実施します。

水島空襲

三菱重工業水島航空機製作所の爆撃後の様子
昭和20年6月22日の三菱重工業水島航空機製作所の爆撃後の様子。
「廃墟の工場に残る一式陸上攻撃機の残骸」

水島空襲を知っていますか?

 昭和20年6月22日8時36分、米軍の大型爆撃機B29の大編隊が、三菱重工業水島航空機製作所を空襲しました。工場は壊滅的な被害を受け、さらに爆弾が流れ弾となって東塚・南畝辺りにも落下し、痛ましい犠牲者を出しました。

水島空襲の被害者

 県警防課の発表によると、その日の空襲による被害者は、死亡者11人、重傷者11人、軽症者35人となっています。
 当時、三菱重工業水島航空機製作所には約2万5千人が働いていましたが、休日だったため出勤者が少なく、工場従業員の被害者は、死者2人、負傷者3人にとどまりました。しかし、工場にいない人にも被害は及びました。「広い道が安全だ」と産業道路を歩いて小麦の脱穀作業に向かった女性とその孫が爆弾の直撃を受けて死亡しました。また、工場の休日を利用して連島から子守りに来ていた女性は、子どもを背負ったまま額に被弾して死亡しました。

水島空襲があまり知られていない理由

 この水島空襲は、県内では岡山空襲にも匹敵するものでしたが、あまり知られていません。
これは、三菱重工業水島航空機製作所が海軍管理工場であり、当時の航空機工業は、国家の最高機密であったため、一般には公表されなかったからです。

水島は合計8回も空襲を受けた

 水島は、昭和20年3月19日を最初に、合計8回の空襲を受けました。米軍の主目的は航空機工業の破壊で、東京や大阪、岡山などの都市の爆撃と異なり、工場だけを目標にした精密爆撃でした。

戦後80周年平和学習事業マーク

戦後80周年平和学習事業マーク

戦後80周年全体の統一性と市民の皆様の平和の尊さについての機運を高めるためにマークを作成しました。

  • 平和を願う千羽鶴のイメージから折り紙をモチーフにデザイン。
  • 平和の象徴の鳩も折り鶴風にし、倉敷らしい美観地区の白壁のなまこ目地瓦張を取り入れ、また、色については晴れの国の「太陽」と「青空」を表現。
  • 田中秋音さん(倉敷市立短期大学2年生)作成。

戦後80周年平和学習事業

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