【鉄道150年】倉敷を走った明治の汽車

【鉄道150年】倉敷を走った明治の汽車

【鉄道150年】倉敷を走った明治の汽車ー倉敷市交通局(水島臨海鉄道)ー 昭和30年前後

令和4年(2022)10月14日は、新橋~横浜駅間に日本初の鉄道が開業して150年の節目にあたる。現在の水島臨海鉄道(当時の倉敷市交通局)では明治時代に製造された蒸気機関車が明治~大正時代製の小さな木製客車を牽いて活躍し、汽笛の音色にちなんで「ピーポー」と親しまれていた。この写真は、1号機関車(明治41年汽車会社製造)の煙突に金色のダイヤモンドスタックと呼ばれる装飾を施し、水島駅を「横浜駅」に仕立てて映画撮影を行った際のもの。水島臨海鉄道の車輌や駅舎は昭和30年(1955)から翌年にかけて公開された『麦笛』『黒帯三国志』などいくつかの映画のロケで使われており、この写真はいずれかの映画撮影時に撮られたらしい。その後、1号機は昭和33年(1958)3月15日付けで廃車された(総務課より移管文書78-1事務報告綴)。映画向けに改装される前の1号機関車の写真は倉敷交通局(水島臨海鉄道)1号機関車のページを参照。
倉敷を走った明治の汽車ー倉敷市交通局(水島臨海鉄道)ー
1号機関車とハ60形客車ほか1輛 水島駅にて 昭和30年前後(公聴広報課移管フィルム1-15)

倉敷市交通局(水島臨海鉄道)で使用された明治時代の客車

鉄道開業時~明治時代中ごろの鉄道では、柱形や板目が表面に露出し外開きの扉を設けた木造車体をフレームに載せ、フレームに直付けした車軸受けに2つの車輪をはめた小さな客車が使用されていた。俗に「マッチ箱」と呼ばれた小さな木製客車は、官営鉄道から姿を消した後も私鉄に移籍し昭和戦後期まで生き残ったものもあった。倉敷市交通局(水島臨海鉄道)にもその成れの果てと思われる愛らしい木製車ハ60が運輸省から引き継がれ、昭和30年代中頃までその姿をみることができた。前歴など今もって不明で、車体中央扉が閉鎖され両端の扉も引き戸に改変されているが、鉄道開業間もない時期の旅客車輌の面影を色濃く残す外観を有していた。映画撮影時にも機関車の次位に連結されて使用されたことが上掲写真にみえる。
倉敷市交通局(水島臨海鉄道)で使用された明治時代の客車 昭和36年1月
ハ60形客車 水島機関区にて 昭和36年1月(安藤弘志氏寄贈フィルム167)
上掲のハ60形以外にも、大正14年(1925)の五日市鉄道(東京都)開業時に製造・導入され、昭和20年代に倉敷市交通局(水島臨海鉄道)に移ってきた日本車輌製の木製客車が6輛存在した。写真のハ52もそのうちの1輛で、二重屋根・開放型の出入台(オープンデッキ)構造のコンパクトにまとまった可愛らしい姿をしており、蒸気機関車が引退した後も気動車に連結されて使用されていた。
倉敷市交通局(水島臨海鉄道)フハ52
ハ52形客車 倉敷市駅構内にて 昭和30年(安藤弘志氏寄贈フィルム18)
水島の客車群
連結された明治・大正期の客車群 水島機関区にて 昭和36年1月(安藤弘志氏寄贈フィルム167)
参考文献
    1)『鉄道ピクトリアル』臨時増刊199号(電気車研究会、1967年)
    2)湯口徹『私鉄紀行 瀬戸の駅から(上)』(『レイル』№29、プレス・アイゼンバーン、1992年)
    3)テツエイダ『日本映画の鉄道シーンを語る』(ブログ、http://tetueizuki.blog.fc2.com/ 2022年1月8日の項)