明治2年の水害
明治2年(1869)は梅雨明けが遅れ,7月(旧暦)に入っても大雨が続きました。5日にはついに東高梁川の四十瀬新田村(倉敷市上富井・東富井・西富井)で堤防が決壊し,倉敷村をはじめ倉敷川と吉岡川に挟まれた一帯の平野部は海のようになりました。こうした緊急時には,村や領分を超えて話し合いを進め,事態を乗り切るための工夫が江戸時代から図られてきました。しかし,この明治2年は,明治維新により地方行政のあり方が大きく変化している最中でした。そのため,倉敷川の堤防を小瀬戸で人為的に切って茶屋町・興除方面に排水するという慣行の実施協議がなされないまま睨み合いがつづくなど,混乱した状況も一部に発生しています。
この水害について詳しくは,倉地克直「明治二年東高梁川洪水と地域社会」(『倉敷の歴史』30号,2020年)をご参照ください。また,岡山大学附属図書館のウエブサイト「池田家文庫絵図公開データベースシステム」でも,この水害時に岡山藩が作成した絵図の画像が公開されています(T2-62,T2-63-1~2,T7-108-1~10)。