明治17年の高潮 概要

ページ番号1011296  更新日 2025年1月25日

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明治17年(1884)8月25日(旧暦7月5日)の昼過ぎから夕方にかけ,九州方面から接近してきた台風の影響で,水島灘沿岸地域に雨交じりの東南の風が起こりました。夜に入ると風は猛烈さを加え,日付の変わる午前0時前後に台風の目が東高梁川河口付近(倉敷市水島地区)を通過,風向きが南西に変化して水島灘海上から児島半島西岸に向かって暴風が吹きつけました。当時,台風による気圧低下の影響で水島灘の潮位は高く膨張しており,暴風にあおられた海面は激浪となって福田新田5カ村(南畝・北畝・中畝・東塚・松江村。倉敷市北畝・中畝・南畝・東塚・松江付近)を囲む防潮堤を破壊し,高潮が5カ村を呑み込みます。深夜の出来事で備えもなく,多くの住民が家ごと波にさらわれ,福田新田五カ村だけで536人もの人命が犠牲になりました(福田大海嘯。犠牲者数は諸説あり)。高潮は同時に連島村・亀島新田村(倉敷市連島町連島・連島町矢柄・連島町亀島新田・亀島などを含む一帯),乙島村・柏島村・勇崎村・黒崎村(倉敷市玉島乙島・玉島柏島・玉島勇崎・玉島黒崎)などにも押し寄せて住民を死傷させ,家屋・塩田・綿花栽培地を押し流し,人々の生活や産業に大きな被害を及ぼしました。最大の被害が生じた福田新田では,被災地救援のため隣接地の福田古新田村(倉敷市福田町古新田)に児島郡役所の仮出張所が設けられ,周辺の村々から人夫が集められて被災家屋・道具類の片付けと行方不明者・遺体の捜索が行われています。死亡が確認された546人のうち身元不明の256人分の遺体は被災地を見下ろす広江(倉敷市広江)の丘上に埋葬され,後世に永く高潮被害の惨状を伝えるため,「千人塚」と呼ばれる供養施設が設けられました。
【参考文献:高橋彪編『明治十七年暴風津浪乃惨劇』千人塚百周年行事実行委員会,1986年。中塚一郎『海嘯懲毖要録 全』私家版,1888年】

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