治水工事御施行願
備中国下道郡川辺村外十二カ村
高梁川の儀は,水源当国阿賀郡花見村より起こり,屈曲南下幾里を経て本郡の北東を環流し,小田川は源を備後国神石郡上村に発し東向およそ何十里を経て,当郡南部を貫流し,両河川辺村に合す。しかしてまた直ちに東西二派に分かれ,東は窪屋郡を経て備前国児島郡に至り南海に注ぎ,西は浅口郡乙島村よりまた海に入る。しかりしかして高梁川の水形たるや,およそ本郡下倉村辺より以北流水急にして,常に河底を穿(うが)つに苦しみ,以南はこれに反して河中砂礫丘陵のごとく,平時にありては河船通路を塞ぐに至る。小田川もまた高埋りの景状ほぼ前条に同じ。当郡の地勢は大率低窪(ていあい),南部に至りては低きこと河底より幾尺,かつ三面両川に包まれあたかも乙字の形状なるがごとし。よって水害を被(こうむ)ること,ここに年あり。また治水の方策を計画することもほとんど三十年の久しきに及ぶ。しかりといえどもその形跡を見ざる者は旧藩の微力なると方法そのよろしきを得ざるに基(もとい)し,ことに沿河の他郡は各藩の割領する処なるをもって,その藩力に任せ堤防を高くし水刎(みずはね)を河中に突出せしむる等,いやしくも大を以て小を凌ぎ,強力弱を圧するの方略に出で,いわゆる隣国をもって壑(がく)となすの時勢なるにより,ついに一致連合して効を永遠に求むるの方策に及ぼす能わず。よっては御維新以来一視同仁の御保護を蒙り候(そうろう)よう歎願仕(つかまつ)るべきはずの処,幸にして年々水害に遠ざかりより,一時の苟安(こうあん)に流れ因循歳月を経過し,ついに客年七月一日に当たり洪水暴溢(ぼういつ)し,沿河の毎村堤防破裂に及び,これがため災害に罹り溺死せし者-人,流失したる家屋-,潰れ半潰れの家屋-,水軒端以上に及ぶ者-戸,良田一夜に変して砂漠あるいは深淵となる者-町余,その他軒端以下の浸水及び禾田(かでん)当毛の皆無あるいは家財流失等莫大の被害,実に当時の悲惨,筆紙口舌をもって名状すべからざるに至る。はた官庁にあらせられても至仁の恩典をもって御救助あるいは特別拝借等,莫大の金員をもって,行き届かせられたる御恤恵を蒙り候えども,多数のゆえをもって,到底一時の飢餓を相凌ぎ候までにて,将来水害を避くるによしなく,よって漸々居を他郷へ転ぜずんば,終にこの災を免るあたわざるものと自認し,方向区々に相わたり候えども,人情故郷を去るに忍びがたく,この上一層の御愛護を得てしかるべき治水の方法御施行のほど哀願仕りたき折柄,淀川筋へ御実施の蘭法麁朶工(そだこう)なるもの,大いに実効を奏し候趣伝承仕り,有志者直ちに該地実視の処,その効用ある理合においてはもとより凡眼の見及ぶ処にあらざれども,これをその沿河の村落所々について質問仕り候に,土人欣然とその施行ありし以来水害を免るることしばしばなりと。天恩の渥(あく)に歓楽するの景況あるを目撃し,本郡被害の人民これを見,またこれを聞きて寝食を忘却し羨望に堪えざる次第につき,果してしかる実効もこれあり候工事に候わば,本郡人民蘇生のため,特別の御垂憐をもって高梁・小田の両川へ至急御施行なしくだされたく,しかる上は従来住み馴れ候郷土に永住し,歳時祖先等の墳墓にも洒掃(しゃそう)し,聖世の御恩沢祖先等まで感戴奉(たてまつ)り候。もっとも方今御国費御多端の儀と恐察奉り,工事費途の幾分を補い奉るべきため相当の金額上納仕るべき念願の処,前顕の通り客年の暴災により僅かに餓死を免れ候までの疲弊に陥り,これにくわえ他に相仰ぐべき道これなく,協議費等例年に幾倍し困難ここに相窮まりおり候場合なるをもって,前に出途とてもこれなきにつき,各自所有の地所を典売し,または常食の数を減じ,この上幾層の艱難相忍び,工事懇願の切実なるを表せんがため,別紙決議書の金額上納仕りたく候条,何卒事情御洞察の上,工事御施行御採用なしくだされたく,よって掛り十三カ村連合会決議相添え,この段願い奉り候なり。
治水工事御施行願
備中国下道郡川辺村ほか12カ村
高梁川は,水源を備中国阿賀郡花見村(新見市)に発して屈曲しつつ南下し,下道郡の北東の縁を流れ,小田川は水源を備後国神石郡上村(神石高原町)に発して東向し,下道郡の南部を貫いて流れ,二つの河は川辺村で合流する。しかし,またすぐに東西の二本に分かれ,東高梁川は窪屋郡を経て備前国児島郡に至って南海に注ぎ,西高梁川は浅口郡乙島村から海に入る。ところが,高梁川の水の流れ方というのは,下道郡下倉村のあたりより北は急流で,いつも河底の土砂がさらわれてしまうのに苦労する。それより南は反対に河中に砂礫がたまって丘陵のようになり,船の航路をふさいでしまっている。小田川も同様に土砂で埋まった状態である。下道郡は全体に土地が低く,南部に至っては河底より何尺も低い。しかも三面を高梁川・小田川に包まれ,「乙」という字のような形になっている。そのため水害に遭うことがしばしばである。そこで,治水の方策を30年も前から計画しているが,その実績があがっていないのは,旧岡田藩が微力であったのと,よい方法が見つからなかったことによる。また,川沿いの各郡はいくつもの藩に分割して領有されていたため,力のある藩は堤防を高くし,水勢を弱めるための水刎(みずはね)を河中に設置するなど,大藩が小藩を圧迫し,隣国を盾にして自国を守ろうという方策に出るありさまで,とうとう一致連合して長い目で有効な手段を考えることができなかった。明治維新により藩がなくなったことで公平な保護を受けられるよう嘆願すべきであったが,幸いに水害のない年がつづき,一時の安楽に流れ無駄に歳月を送ってしまった。ついに昨年七月一日に洪水が発生し,川沿いの村々で堤防が決壊し,そのため溺死した者-人,流失した家屋-,潰れ半潰れの家屋-,軒先以上の浸水が-戸,良田が一夜にして砂漠や深淵となった土地-町余,そのほか軒先以下の浸水や今年の収穫皆無,あるいは家財流失など莫大な被害が出た。実にこの悲惨さは筆舌に尽くしがたい。官庁においても情け深いお取り計らいにより救助や特別貸付などに莫大な金額を支出され,行き届いたご支援をいただいた。とはいえ,多人数のことであり一時の飢餓を凌ぐことができたのみで,将来の水害を避ける方法もない。そのため住まいを他の土地へ移さなれば,水害をまぬがれることはできないと考え,各地に転居してゆくけれども,人情としては故郷を去るに忍びがたく,この上はさらなるご支援を受け,しかるべき治水の方法を実行してくださるようお願いしたいと思っていた,ちょうどその折,淀川筋で実施された麁朶工(そだこう)というオランダ式の治水工法が,大いに実効をあげたという話を伝え聞き,有志の者たちで直ちに現地を視察したところ,その効果が発揮される仕組みは私の目では分からなかったが,そのことを川沿いのあちこちの村落で質問したところ,村人たちはうれしそうに,それが作られて以降しばしば水害をまぬがれることができたと言うのだった。そうした恩恵を受けている様子を見聞きし,下道郡の被災者たちは,寝食も忘れてうらやましさにたえない次第である。そのように有効な工事であれば,下道郡の人民が蘇生するため,特別の憐みをもって高梁川・小田川へ至急施工していただきたく,そうすればこれまで住みなれた郷土に永住し,祖先などの墓を守ることもでき,聖世のご厚恩に対し祖先などまで深く感謝するであろう。ただし今日国の財政もきびしいものと拝察し,工事費の一部として相当の金額を上納したいと考えてはいたが,前に述べたように昨年の水害によって餓死に迫るほどに疲弊し,加えて他に頼れるところもなく,協議費などは例年の何倍にものぼり,困難きわまる状況にあるため,資金が調達できる見込みもない。そこで各自が所有する地所を売却し,または食事の数を減らし,さらにいくらでも苦難を忍ぶ覚悟で調達した別紙決議書の金額を上納いたしたい。なにとぞ,その願いの切実なことをご理解のうえ,工事を実施していただきたい。よって関係13カ村連合会の決議を添え,お願い申し上げる。