1690年に発見された別子鉱山の銅鉱床は江戸中期に世界的な銅鉱山となった。明治以降は西洋の技術を取り入れ1973年まで採掘が行われ、産出した銅の量(金属量)は約70万tで栃木県足尾鉱山と並び日本最大の銅鉱山だった。
別子鉱山の銅鉱床は、約1億5000万年前、今の場所から遠く離れた海洋底の火山活動で,銅を含んだ熱水が海底に噴き出し、銅の海底熱水鉱床ができ,地球表面のプレートの動きでそれがユーラシア大陸縁辺部で地下深部に押し込められ,高い圧力と温度で変成したもので、キースラガーと呼ばれる銅鉱床である。
キースラガーは世界のプレート境界部付近のあちこちで見られるが,昔から別子鉱山の銅鉱床がその典型例として研究されてきたので世界的な用語で別子型鉱床(bessi-type deposits)ともいう。
別子鉱山の銅鉱石は,金色の黄鉄鉱と黄銅鉱の密な集合体が緑色片岩(海洋底玄武岩が変成した岩石で、くすんだ緑色で薄くはがれるように割れる)に伴われるものである。
この別子鉱山の鉱石は特に銅含有率が高く、地下深部での高圧下で可塑性の違いで濃い金色の黄銅鉱が黄鉄鉱から分離濃縮し、それが変成作用で部分的に紫色の斑銅鉱と淡い金色の黄鉄鉱の集合体に分解したものである。
別子鉱山操業時にはこのような鉱石は「はねこみ」と呼び、特に銅含有率が高いので貴重視され、その紫色の斑銅鉱はその色から「紫蘇鉑(しそはく)」と呼んだ。
部分的に銀色粒状のコバルト鉱物らしいものも見られ、これも変成作用でできたものである。
なお、江戸時代は別子鉱山の銅鉱石から製錬された銅は,船で大阪に運ばれ,微量に含まれる金・銀が南蛮絞りという方法で抽出された後、その銅は寛永通宝などの銅貨幣にされ、また,棒状に加工されたもの(竿銅)は長崎に送られオランダとの貿易に使われた。
昭和時代には坑道は地表から2200mの深さに及び(坑道の深さは日本最深)、地圧による坑道の崩壊もあり1973年に閉山した。