明治26年の水害 概要

ページ番号1011297  更新日 2025年1月25日

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明治26年(1893)10月14日,台風に刺激された秋雨前線の活発化により,数日前から雨が降り続き,高梁川をはじめとする岡山県内河川の水位が上昇しました。中国山地で盛んだった「カンナ流し」(砂鉄採取)の影響でかねてから河床に土砂が堆積し流水に支障を生じていた高梁川は水位膨張に耐えられず,14日晩から翌日にかけて氾濫し,各所で堤防決壊・越水による大洪水を引き起こしました。この水害により川辺村(倉敷市真備町川辺)は壊滅的な被害を受け,集落のほとんどの家屋が流失または倒壊,54人の住民が溺死しました。当時の高梁川は川辺村の南方で東西2本に分かれて流下していましたが,東高梁川右岸の酒津村一ノ口堤防(倉敷市酒津)・西高梁川左岸の古水江堤防(倉敷市水江)も大きく決壊し,東西高梁川に囲まれた中洲状の地勢に立地する甲内村(倉敷市片島町・西阿知町西原)・西阿知村(倉敷市西阿知町・西阿知町新田)・中洲村(倉敷市酒津・水江・中島)のほぼ全域が水没しました。この時,西高梁川右岸の又串堤防も決壊して船穂村(倉敷市船穂町船穂・船穂町水江・柳井原)が激流に呑まれ,破壊された家屋や住民を乗せた溢水が玉島村(倉敷市玉島1丁目~3丁目・上成)の市街地域に押し寄せて大きな被害を出しました。東高梁川左岸は大きな被害をまぬがれたものの,倉敷川・吉岡川などの堤防が破断し粒江村(倉敷市粒江・黒石・粒浦・八軒屋・東粒浦)が床下浸水の被害に遭っています。被害にあった流域各地域では住民が瀬戸内海まで流され,船舶や島嶼部の人々に救助されたと伝わっています。岡山県内全体で溺死者423人・流潰家屋6240戸もの被害を出したこの水害は,近代に入って高梁川が引き起こした水害としても最大規模のもので,高梁川付替え・一本化をともなう本格的治水工事が始動するきっかけともなりました。
【参考文献:『岡山県水害史』下巻,岡山県庁,1901年。木谷重春写『天変破堤実記』私家版,広報まびナンバー111~113に掲載,1894年。『真備町史』真備町,1979年,吉沢利忠『沈む島 消えた町』山陽新聞社,1984年。『岡山県水害写真帖』,1893年。「岡山県備中国水害書」宮内公文書館50760,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jpに掲載】

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