寛政元年の水害 概要

ページ番号1011291  更新日 2025年1月25日

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寛政元年(1789)6月18日,4日前から降り続いていた雨が激しくなり,西高梁川(当時は高梁川が倉敷市真備町川辺以南で東西二川に分流していた)の左右両岸の堤防が決壊する大きな水害が発生しました。西高梁川左岸では西原村(倉敷市西阿知町西原)の堤防が300間(約540m)にわたって破断し,そこから大水が川内(こうち)地域の連島丘陵以北の範囲(倉敷市酒津・水江・西阿知町・片島町・中島)へ流れ込みました。川内地域は東西高梁川の中洲のような地勢にあり,地域全体の灌漑用水を下流へ吐き出す水門が締め切られていた影響もあって水の逃げ場がなく,片島村をはじめ隣郷数か村が水没し民家などが流失して危機的な状況になりました。しかし,湛水の圧力で片島村の堤防が内側から決壊,そこから水がはけて人命被害はまぬがれました。一方,西高梁川右岸では同じ日の七つ頃(夕方16時半ごろ)船穂(ふなお)村(倉敷市船穂町船穂)の中新田付近(国道2号バイパス船穂ジャンクションの南方)で堤防が決壊し,河水の流入によって乙島(おとしま)・柏島と船穂・長尾・八島(やしま)の丘陵に囲まれた地域が湖水化しました。北川集落(倉敷市玉島八島の東部)の家々は軒の高さまで水没し,玉島湊の土手町・中島町(倉敷市玉島3丁目)にあった多数の商家・住宅が建物流失・崩壊の被害に遭っています。勇崎村北端の唐舟(とうせん。倉敷市玉島勇崎)には備中松山藩主水谷氏が新田開発のために造った古堤防があり,およそ1日湛水が南方へ漏れ出すのを抑えていましたが,翌19日この堤防も切れて玉島北部に充満していた河水が南方へ流下して水島灘まで到達し,勇崎浜の塩田が壊滅的被害を受けました。海の方へ水がはけたため,玉島北部では19日から20日朝にかけ1尺(30センチメートル)ほど水嵩が減り,発災から半月ほど経った6月末日ごろ地域を覆っていた水がはけたと言われています。後世の人々が「中新田切れ」などと呼び,明治26年水害の際は直近の過去に高梁川西岸地域で発生した水害の最たる事例として引き合いに出されており,その被害の甚大さが長く地域に記憶されました。
【参考文献:中塚一郎『勇崎村誌』私家版,1889年。宗沢節雄『郷土風土記』私家版,1986年。大田茂弥『玉島地方史 続1』忘牛庵,1991年。玉島郷土研究会『玉島変遷史』玉島市立図書館・玉島文化クラブ,1954年】

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