江戸時代、北海道・東北・北陸と西日本を結んだ西廻り航路は経済の大動脈であり、この航路を利用した商船は北前船と呼ばれました。北前船は、米をはじめとした物資の輸送から発展し、船主自身が寄港地で仕入れた多種多様な商品を、別の寄港地で販売する買い積み方式により利益をあげたことから「動く総合商社」と形容されています。日本海や瀬戸内海沿岸に残る数多くの寄港地・船主集落は、北前船の壮大な世界を今に伝えています。
山を仰ぐ港と山に抱かれる港
北前船が寄港する港にはどんな特徴があったのでしょうか。立地から見ると大きく二つに分けられます。
一つは、山を借景として大きな川の河口に位置する「山を仰ぐ」港です。日本海から仰ぐ名山は、古くから航海の目印となり、その近くに港を築いています。これらの港は江戸時代には、上方への年貢米の積出港となり、領内の穀倉地帯を流れる大河の河口に米倉、番所などが整備されました。名山を仰ぎ大河に抱かれる港が、日本海を経由して北日本と上方を結ぶ西廻り航路の基盤となり、各地へとつながりました。そこでは、夕日に輝く雄大な自然と港が一体化する名画のような景色や、山から見下ろす美しい港のパノラマに出会うことができます。
もう一つは、山と海の間のわずかな平坦地に位置する「山に抱かれる」港です。一度の航海で巨万の富が得られる北前船が頻繁に行き交うようになると、風待ち港も含め多くの寄港地が整備されました。砂丘の多い日本海沿岸では、山と海に挟まれたわずかな平坦地を利用し、コンパクトな港や集落を築いています。古い建物や荷揚場、船止めの杭など、北前船によりもたらされた、文化遺産が集約された町並を歩いて回ることができます。
一攫千金・のこぎり商いが育んだ港町
北前船での商いはなぜ、大きな利益が得られたのでしょうか。それは、当時の国内の地域間価格差によるためです。例えば、北海道で大量に獲れる鯡は、西日本では綿を栽培するための肥料として高く売れました。一方、西日本と北日本で衣類の生産技術の差から、西日本の古着が北日本では高価な商品となりました。上方に鯡を売って空になった船に古着を積み込み、北日本で売る、押して引いて木を切るのこぎりのように行きも帰りも商売をする北前船は「のこぎり商い」とも呼ばれました。
一航海千両、と言われた北前船が生み出す富は莫大であり、藩と連動して年貢の積み出しを行う大きな港のみならず、人口の少ないコンパクトな港や集落にも経済的繁栄をもたらしました。
北前船により発展した港には、廻船問屋や商家、蔵など、大規模な建物が残されています。町は、小路に沿って家が軒を連ね、小路はそのほとんどが海に向かう特徴的な町割りを見せています。船乗りに安らぎと解放を与えた花街や、日和を見た小高い山、航海の安全を祈った神社仏閣など、北前船がもたらした機能が整えられています。そこには、封建下にあって近隣の稲作を中心とした農村や、その基盤上にある城下には見られない、海上輸送という手段を手にした商人たちの築いた町があります。想像もできないほど高い塀や、敷地内に多くの土蔵を持つ豪壮な屋敷を見て、「こんな所になぜ、こんな大きなお屋敷が」と言った、驚きや発見に出会うことができます。
「板子一枚下は地獄」に生きた男たちが運んだもの・残したもの
熟練の操船技術を持つ船乗りにとっても、嵐にあえば「板子一枚下は地獄」の恐怖にさらされます。商品を無事に運べば多額の利益を得られる北前船も沈んでしまえば一巻の終わり、全財産を失う船主もいました。危険と隣り合わせの航海は、安全を神仏の庇護に求め、寄港地の中心や小高い丘には神社や寺院があり、港と並行に寺院が建ち並ぶ町もあります。そこでは、航海の無事を祈願した船絵馬や船模型、中にはちょんまげを奉納した「髷額」が奉納されています。
また、境内には遠く離れた国名や問屋名が刻まれた玉垣、石灯籠、手水鉢などが寄進されています。船を安定させる底荷・バラストとして運ばれた石の中には、神社や参道の石段に利用され、雨に濡れると神秘的な輝きを見せる笏谷石があります。社寺には船主や問屋らが寄進した、良質な木材を使用し優美な彫刻を持つ社殿や堂宇も見られ、船乗りが神輿を寄進したことを起源とした祭り、京都から伝わったとされる祭りも行われています。
北前船の寄港地・船主集落にある格調の高い神社仏閣の多くは、北前船の船主、船乗りらの篤い信仰に支えられていたことが分かります。
北前船が帆を上げて現代に残した文物交流
北前船は生活必需品に加え、雛人形などの高級品、そして様々な文化を運んでいます。天候に左右される北前船の航海は、「風待ち」という文化により、出港までの間、料亭や茶屋などでの一時の出会いと別れと共に、そこで唄われる民謡など各地の芸能が船乗りたちによって伝わっていきました。代表的なのが、「おけさ」や「あいや節」などと呼ばれる哀調を帯びた節回しを持つ民謡です。この民謡は熊本で生まれた「ハイヤ節」が船乗りの間で歌い継がれ、北前船により日本海沿岸の港町に広まり、各地に根付いた芸能として親しまれています。
和食を代表する「昆布だし」食文化も生まれました。北海道から京都や大阪に運ばれた物に昆布があります。この地で昆布は「昆布だし」に磨かれ、日本のだし文化として現代の和食の基本になっています。他には凍結に強い赤瓦が運ばれたことにより、北国の防災力が向上し、綿の肥料となる鯡や古着が行き交うことにより、衣服の質が格段に良くなりました。北前船は日本人の衣・食・住の生活環境向上に大きな役割を果たしたのです。