児島の沿革 について
児島の地名は,古くは古事記に「伊邪那岐,伊邪那美命,大八島国を生みませる後,還りまして吉備の児島を生み給う。」と記されていることに由来します。
鎌倉時代の後鳥羽上皇は,熊野権現のご信仰が非常に厚く,承久の乱後,後鳥羽院第五皇子冷泉宮頼仁親王も郷内村に流配され,現在も倉敷市木見の「頼仁親王御陵」(下写真)に祀られています。
桃山時代の末に,宇喜多秀家は南海の守りとして下津井に城を築きましたが,これは岡山の烏城に対して「鳴留守城」と呼ばれ,内海の守りとして重要視されていました。
江戸時代になってからも,この地方は下津井城とともに,軍事上・経済上に主要な地として,代々の藩主はこの城を重視し,また老臣を置いて児島全域を領地として与えたので,下津井は政治・経済・文化の中心地として栄えました。下写真は「むかし下津井回船問屋」。
下津井の町は,いまも城下町として,その面影を残していますが,その後下津井城は幕府の方針により,約50年後には廃城となりました。しかしながら城下町として養われた経済力は,藩内有数の商工地として明治末期まで栄えました。下写真は,今の下津井の街並み。
またこのころから,由加山の由加大権現は全国の信仰を集め,備前最大の霊地として,讃岐の金刀比羅宮とならび称せられ,「讃岐のコンピラさんに参って由加に参らねば片参り」といわれてにぎわいました。
そして,門戸の「田の口港」は,四国路の連絡港として大いに栄え,
由加みやげとして織られていた「真田紐」は,内職的なものからしだいに発達して,今日の児島機業の先駆となりました。
一方で,産業も江戸時代を通じて児島全域の海岸にわたり,塩田造成が盛んに行われていました。
昭和24年4月には,岡山県県南都市として,味野町,児島町,下津井町,本荘村の4カ町村が合併し,児島市として発足しました。
昭和31年4月には,児島市と琴浦町は互いに両市町を廃して新しい児島市となり,昭和34年3月には郷内村を編入しました。
昭和42年2月には,倉敷市,玉島市と3市の大合併を行いました。
昭和63年には瀬戸大橋が開通し,児島は四国に繋がる本州の玄関口となりました。
平成30年(2018年)には,児島が本州と陸続きになって400年を迎えました。